うめまつの日記

気ままに更新します。

『破局』遠野遥著 読み終わって

全く更新してなかったが、備忘録として読み終わったばかりの『破局』について考察してみる。

 

 

破局

破局

 

 

芥川賞受賞作の意味

巻末情報によれば、遠野遥氏は、1991年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。東京都在住。

 

 出身地、居住地さえ違えど、私は92年生まれ、慶應文学部卒であり、非常に親近感抱く。どうやら初の平成生まれの芥川賞受賞者らしい。平野啓一郎氏あたりでも年齢的な近さを感じていたが、ここまで同年代の方の受賞はまずもって嬉しいし、関心を抱く。さらにそれが同じ大学の卒業生(慶應用語を使えば塾員)であると言う訳であればなお一層である。受賞発表から1日遅れではあったが、金曜日の仕事帰り、最寄りの本屋で残り一冊となっていた受賞作を躊躇なく購入した。

 

 以下、私なりの考察である。ネタバレも含まれることはあらかじめ記しておきたい。

 

②テーマについて

 (直接の記載はないが)慶應大学に通う大学4年生陽介の恋愛小説。もしくは大学生ということで、青春小説と言っても良いのかもしれない。

 

③ストーリーについて

 語り手が複数いる点に文章構成上の魅力がある。陽介がそのほとんどであるが、友人の膝君から陽介へのメッセージ、元恋人の麻衣子の一人語り(物語)のパートも重要だ。したがって、群像劇の一種にも思える。膝君が語り手になるパートは、膝君から陽介への手紙もしくはメールの様な文章であり、川上未映子乳と卵』の緑子と同じような視点である。麻衣子のパートは後述する。語り手と並んで指摘したい点がある。それは、いまば「奇人」が物語の中で移り変わるという事だ。最初にズレている存在(奇人)として描かれるのは、膝君だ。彼は、陽介が灯と出会うきっかけを作ったキーマンである。一方で、最初に描かれる彼の言動は、社会からドロップアウト寸前の雰囲気がある。お笑いサークルからの卒業を目前にしつつ、就活には非常に批判的で青臭い。酒癖もあり、公務員試験間近の陽介と対照的なダメな人間である。しかし、読み進めるとわかるが、彼の奇人ぶりは最初がピークである。慶應らしいのかもしれないが、学生時代変なことをしていた人が、最終的に落ち着いて、安定した職に就く(実際に私の友人にもいた。) 。そして、膝君の奇人ぶりが薄れる中で、存在感が増すのが元恋人の麻衣子と恋人の灯だ。麻衣子は政治家志望であり、議員の手伝いや議員の集まりに積極的に参加する。なぜ政治家を目指しているのかは語られない。20代で国会議員を目指す女性というのは、今の日本社会では、残念ながら希だろう。政治塾に熱心に通う麻衣子の行動には徐々に不気味さを帯びる。さらに、ある日突然、陽介の自宅を訪れ、自らセックスを押し掛けたかと思うとあっという間に部屋から去ってしまう。なんとも本心がわからない。また、中盤で麻衣子は自分の幼少時代、インフルエンザで自宅療養していた日に起きた事件のことを物語る。この部分はこの小説の中で、驚くほど異質なパートである。読んでいて、辻村深月のミステリー小説(『鍵のない夢を見る (文春文庫)』『きのうの影踏み (角川文庫)』など)を読んでいるかのようであった。話自体が不気味でありつつ、同時に語り手(ここでは麻衣子)にも何か違和感を拭えない。麻衣子を奇人と思わざるを得なかった。また、付き合い始めた恋人の灯も、徐々に不気味な存在となっていく。陽介とのセックスは頻度が増える様になり、北海道旅行では自分でも性欲を抑えられないことを告白する。この中盤の麻衣子と灯という2人の女性の持つ不気味さは、尚更辻村深月の作品を彷彿させ、なんとも作品がミルフィーユのような重層、味わいが出ていると感じた。しかしながら、終盤に待っているのは、膝君でも麻衣子でも灯でもなく、主人公陽介の奇人ぶりであり、彼の「破局」である。ちなみに、灯が終盤、陽介に別れを告げる場面も不気味さを覚えたが、恋愛観そのものはむしろ現代的なのだろうとも思う。マッチングアプリで、自分とマッチする人を選択する、経済的な(政治的ではなく)考えは今ならではだろう。話を陽介に戻す。母校のラグビー部コーチ業は、顧問の佐々木にとっても、生徒にとっても行き過ぎであることが明るみになるばかりか、自分の考えに「ついて来れない」彼らに怒りを覚える姿はもはや狂気じみている。ラガーマンのカッコよさは昨年のワールドカップで如何なく知れ渡り、改めて市民権を得たのは周知の事実だが、その影の側面を描いているというのは、昨年公開映画『宮本から君へ』の真淵でも描かれたことを自然と思い出す。また最後の最後まで、陽介は冷静である様に描かれ、転落していく異様さ、不思議な緊張感は、ポンジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族(字幕版)』を観ている様であった。(もちろん褒め言葉である。) 灯を追うシーンでコーヒーとカフェラテを描写する表現や、警官に押さえられた時に上空の青さについての表現は、全く関係のないシーンをあえて挟み込むと言う点で、なんとも映画的かつポンジュノ的に思えた。

 したがって、以上にあげた主要な登場人物4名は、私が思うにみんな奇人的な描かれ方をしている。こうした、単一のキャラクター化させない表現は非常にリアリティを感じるし、直木賞作家朝井リョウの『何者』でも感じたところだ。「キャラ立ち」というのはもはや死語なのかもしれないが、単純化するのを好む現代社会の危うさは、この作品からも指摘できよう。


『宮本から君へ』15秒SPOTアクション篇


第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編


映画『何者』予告編

 

 

④陽介のパーソナリティについて

スポーツマン(特にラガーマン)としてのポイントは先に挙げた通りなのでそれ以外について考察する。陽介は、わかりやすく二面性を持った人間として描かれている。一方では、模範的な道徳心や正義感を持った規律的な生活をする(電車等での行動)、母校のラグビー部コーチ業(母校の監督からの信頼)を得ている、公務員を目指し試験勉強に励んでいるといった姿が描かれている。もう一方では、過度な性欲やトイレの側の席を好む、筋トレや自慰行為の際に変わった性癖があるなど常識外れの姿も描かれる。

 

これは、それこそ慶應にこそいそうな人物と私は思ったが、前者である規律的な要素というのは、親や監督や法律を意識した権威主義的な従属意識が根底にあると拡大解釈できる。これは、やや突拍子もない(あるいは極端な)意見かもしれないが、これこそ日本の伝統的な文化であり、偏差値の高い大学に進学する様な子供が教わることの多い性質と思う。厳格な親、運動部における監督、法律・マナーは、「いい子ちゃん」として育った人間には絶対である。話を広げさせてもらうと、これはドイツ🇩🇪と日本が似ていると言う際の共通点として挙げられる要素の一つである。あえてヴェーバーの分類を引き合いに出さなくても、『2人のローマ教皇』でも描かれているベネディクト16(ドイツ人)の考え方を見れば良くわかるし、並びに、『1918年最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか ドイツ・システムの強さと脆さ (文春新書)』にて、著者の飯倉章氏が結論として述べているドイツ人の特徴なのである。閑話休題現代社会ではこうした権威主義的な性格で生き続けることは、この作品の様な悲劇を生まないまでも、困難である。そうしたリアリティと真っ当に生きていると思っている人間が悲劇的な転落を迎えるという皮肉は、小説をエンターテイメントに終わらせない、魅力を生んでいると思う。


『2人のローマ教皇』予告編 - Netflix

 

 

 

非常に読んで面白かった。今後の作品にも期待したい。